噴水にたつ虹ほどの淡さにて・・・

長尾幹也さん(高校3年生の時に新聞の歌壇に初掲載されて以来、 50年に渡って 勤め人の葛藤や闘病の日々を短歌に詠まれ、今年 1 月28日に66歳で逝去なさった)の歌の一つが このところ ずっと私の心の片隅にある。

《噴水に たつ虹ほどの淡さにて 人の心に棲 (す) みたし死後は》

長尾さんご自身が綴られた言葉(新聞の地方版に連載されていたコラムの中で)「時折ふと懐かしんでもらえるような思い出を 何人かの心に残し、今生を終えられれば私は満足だ」も浮かんでくる。病や死と向き合う中での 長尾さんの静謐な心境が伝わってきて心打たれる。

 

私自身も思いもかけなかった病を得てからというもの、死が急に身近なものになった。生きとし生けるもの全ての行く先「死」は いずれ我が身にも訪れることは理解していても、それまでは 感覚的にはまだまだ遠い先のことだった。「天寿を全うする」とか「平均寿命」など関係なしにやってくる可能性だってある・・・こんな当たり前のことを改めて認識する。

「私はまだ死ねない。せめて、実家の両親を見送り(親より先に旅立つ不幸はしたくない)、(小焼け)が自立するのを見届けるまでは 断じて死ねない」とあがきもする。

 

長尾さんの歌に出合ってからというもの、「死後の私は 誰かにふと懐かしんでもらえるだろうか?」と思ってもみる。日頃の自分の言動を思い起こせば、静かに懐かしんでもらえるというよりは、思い出が笑いと共に浮かび上がるような気もする。どんだけ 粗忽者やねん。恥ずかしい。

ううん、笑われるだけならまだ良い。「自分が無意識に誰かを傷つけ ざらざらとした不快な思いを残しているのでは?」と思うと怖くもある。ごめんなさい。軽率で思慮が浅いばかりに 結果としてどなたかを傷つけたかもしれないけれど、意図して そうしたかったことは決してないのです。多分。・・・と、姿も見えない特定もできない誰かさんに謝ってみたりもする。

長尾さんの言葉、「時折ふと懐かしんでもらえるような思い出を 何人かの心に残し、今生を終えられれば私は満足だ」を反芻してみる。それにしても〈噴水に たつ虹ほどの淡さにて〉とは なんて長尾さんらしい繊細で謙虚で優しい表現だろう。感嘆する。

 

そして今度は逆に「自分の心の中に棲んでいて、時折ふと懐かしく浮かんでくる人達」のことに思いを馳せる。 次から次へと浮かんでくるあの方、この方。かけて貰った言葉が糧となり、優しさにも支えられた。中には数度しかお目にかかっていないのに、深く心に染み入る言葉をくださった方もいらっしゃる。今となっては もうこの世では言葉を交わすことができなくなってしまった人達も浮かんでくる。一人ひとりの仕草や語り口がよみがえる。いろんなことがあったけれど、こうして懐かしく思い出せる人達と関われたことは幸せだ。

実際の出会いの他に、書籍を通しての出合い、インターネットを介して (音楽やブログやエックスで) の繋がりもあった。今はブログをお休みされているあの方はどうしていらっしゃるかなぁ?と思いながら、過去記事を辿ってみたりする。自然や人に向けられる優しい眼差しが温かいものを運んでくれる。またお目にかかれればいいなぁと心待ちする。突然の病に倒れられた方が、時を経て再開された時の安堵と嬉しさもある。お帰りなさい。ご無理をなさらずにね、とPCのこちら側から呟く。訪問してみると「Blog not found」と表示されるブログもあり 寂しさがこみ上げてくる。いろいろご事情がおありでしょうけれど、どうぞお元気で過ごされていますように。

 

最初は、長尾さんから始まったことが、こうして話があちらこちらへと飛んでしまう。今日もまとまらない記事だった。