「数分間の猶予」が教えてくれたこと

恩師 T 先生の訃報が届いた。
T 先生は社会科の先生で、私が高校2年の時の担任でもあった。

当時、生徒に人気のある先生といえば、「ユーモアに富む」、「授業がテンポ良くて分かりやすい」、「進路に関する情報量が多くて的確」、「スポーツ万能」、「美形」…といったタイプの先生方であった。

 

そんな中で、T 先生はどちらかというと地味であった。(先生ごめんなさい)
あまり大きな声で話されることはなく、髪や身なりをきちんと整えられ、黒板に書かれる文字は丁寧であった。

授業内容について質問に行くと、即座に「これはね・・・」と 懇切丁寧に説明してくださるので よく理解できた。そして、「学生時代からずっとコツコツと勉強(研究)を重ねてこられたのだろうなぁ」 と思った。

私はそんな T 先生が好きだった。

 

当時の高校の「遅刻」の基準としては、「朝(HRに)担任の先生が教室に入られる前までに、着席していない生徒は遅刻」ということになっていた。
T 先生は、すぐには教室に入らず まずは廊下側から教室内を一瞥された。そして 欠席届の出ている生徒以外の空席があれば、2階の窓から校門を眺めながら 廊下に立っておられるのが常だった。

そこの廊下からは 校門に走り込んでくる生徒の姿が見えるのだ。

 

電車通学の生徒が 駅から学校に着くまでの間には、信号機が幾つもあった。
車の通行量が多い 大きな道路の青信号は長く、その分 そこを横断する歩行者は(赤信号のまま)長く待たねばならなかった。足踏みして待ったところで 待つ長さに変わりはないのに、生徒達は足踏みしながら待った。(早起きして もう少し早い時間の電車に乗ればいいのだが、青春時代はひたすら眠い)。

そうして、息を切らした生徒達が教室の前まで辿り着くと、先生はにっこり笑って「おはよう」と言われ、生徒達が着席した後に教室に入られた。

 

数年経って、車の免許を取得しに教習所へ通っていた時、車のブレーキペダルやハンドルには「遊び」といわれる「ゆとり」があってこそ、スムーズな運転が可能なのだと教わった。しかし「遊び」が多すぎても危ないとも。

その時 なぜか私は、T 先生がくださった 朝の「数分間の猶予」を思い出した。

 

学校生活のみならず 社会生活においても、あまりに「きっちりしすぎた規律」に囚われると 息苦しさを感じることもある。 車に「遊び」がないと アクセルに軽く触れただけで急発進・急加速してしまい、事故のもとになってしまうのと同じように。

反面、あまりにルーズであってもダメになる。

「程良い寛容さ」を自分も持ちたいと思う。(なかなか難しいけれど)

そして、そんな社会ならいいなぁ…。

 

T 先生の穏やかな笑顔を懐かしく思い出しながら、こんなことを思う夜。