一生 (その2) 思いを寄せて

 最近、家の中を やたら うろうろと無駄な動きをしています。動線が長くなり、しかも、もつれています。その理由は簡単。4月28日に書いたことのひとつ「部屋の模様替え」をしたからなのです。

確かに部屋を見渡せば いささか新鮮で、気分転換になっている気もするけれど、どうも使い勝手が悪いんです。そりゃそうでしょう。使い易いようにと長い間かけて少しずつ配置を変えてきて、この間まで心地良く収っていたものを、GWだからと張り切って がらりと変えてしまったのですから。

あ~あ、家具や細々としたものは動かさずに、カーテンとラグ・カーペットを春らしいものに変えただけで終われば良かったな。 私の頑張った 1 日を返して。

 

★前回 (5月5日)、大林三佐子さんへの思いを書いてはみたのですが、実は TV 録画を観ながら湧き上がるものを どう表現したらいいのか纏めることができずに、もやもやと心に留めたままになっていたものの方が多かったのです。 不完全燃焼感が残るけれど、それは私の文章力のなさ故のことなので、諦めかけていました。

 ところが・・・私が いつもブログ更新を楽しみに待っているブロガーさんのお一人、 なお (id:beautifulcrown7)  さんが 時を同じくして記事になさっているのを拝読し、「おおお!」 と感動しました。きちんと文章になさっています。すごい。それに、熊谷晋一郎さんのお話も 私にとっては目から鱗状態で、なるほどと頷きながら拝読しました。

ご紹介 ( ブログでは「言及」?) させていただきたいと思いましたが、なおさんは かねてより 広い視点で「性」や「自己責任」について 掘り下げて考えていらっしゃって、それらは「ジェンダー」や「福祉」などにも繋がっているのです。

それ故に、なおさんが連携させて熟考なさっていることの一部分だけを 私のブログにご紹介させていただくのは失礼かと躊躇していました。でも やはり諦めきれず 先日思い切ってお願いしたところ、快く了承してくださったので ご紹介します。

(なおさんの記事を通して 改めて考える機会をいただきました。たくさんの 感謝を なおさんに)

 

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「自己責任」とか「自助」は、自分にとってはもはや呪いの言葉だ。

この傾向が行き過ぎていることで、今この国ではどんどん人が死んでいるじゃないかと思わずにはいられないのだ。

 

先日も昨年11月に早朝のバス停のベンチで「邪魔だ」と殴られて亡くなってしまった大林三佐子さんの事件が大きく取り沙汰されていた。聞いていて、とても平常心ではいられなかった。全く他人事ではなく、ほんの少しのさじ加減で誰もがこの状況に陥る可能性がある今の厳しい自己責任の世の中が心から怖いと思った。

なぜ彼女が… ホームレスの死が問いかけるもの 東京・渋谷のバス停で事件|NHK事件記者取材note

 

自立って、本当に「人に頼らず自力でなんとかする」ということを指すのだろうか? 私が思い出したのは、熊谷晋一郎さんの話。

何にも依存せずに生きている人なんて誰もいなくて、誰もがさまざまなものに依存して生きている。そのことを本人が自覚していないだけだ。

自立とは、必要な複数のサービスやケアを十分受けることができていて、それらに少しずつ依存できていることで、かえって何にも依存していないように感じられる状態のことを指すのだ、という話。

 

依存しているように見える人とは、依存先を少ししか持っていない人のことだ、と熊谷さんは言う。選択肢がほとんどないために、ひとつの依存先に全面的に依存することになる。時にそれは相手にとって受け止めきれない依存度になり、問題化してしまう。

自立とは、多くの人が無理ない範囲で少しずつ関わっている状態。そしてそれは分野に応じて互いに頼る側頼られる側がスイッチしたりもする。

現状が実現できているとはもちろん言い難いけれど、その思想の方がずっと豊かだなと私は思う。がんばりがいがある。 

踏まれた足とは ② - 続・みずうみ

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なおさんは更に福祉についても述べられています ↓ ___________________________________________________________ 

福祉分野に関する知識を持たないので、自分や知人の体験から想像して書くことしかできないが、少なくとも自分自身はこれまで40年以上生きてきて、公的機関に困難を訴えて良かったと思えた経験は思い出せない。

後ろ盾もなく、女で、喋り方も申請作業も下手な自分は、相談しなければ良かったと無力感や怒りを感じながら諦めるという結末になることが多く、やがて相談すること自体を無意味と思うようになっていったと思う。

 

福祉に限らず、公的制度を利用するには、書類の申請スキルや、有力な紹介者や、介在してくれるプロの存在や、誰の目にも明らかな緊急性のある状況、対応しなければ担当者の責任が問われるといった要素がなければ、なかなか難しくて、結局徒労に終わることも少なくないと思う。

また、結婚してだんなさんが交渉役になった時の役所や学校の対応のスムースさが全然違うのを隣で見てびっくりして、自分は女だと侮られていたことを知り、やるせない気持ちになったこともある。

 

この国の福祉は、受けやすいもの、受けにくいものあるが基本的に申請主義で「生活保護を受けさせないための水際作戦」というような言葉があるとおり、国は本音ではできるだけ福祉を提供せずに済ませたいのだし、こども食堂は公的機関ではなく、やむにやまれず立ち上がった民間の人々が運営する場所だ。

先日も、役所に相談に訪れた人に、受け取ることのできる公的な福祉制度をあえて教えずに「民間NPOのどこそこに行ってください」と役所が他人事のようにどんどん困難者を回してくる、自分たちをまるで下請け機関のように思っている、と民間団体の方が苦言を呈していた。

踏まれた足とは ③ - 続・みずうみ

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私も役所の窓口で見聞きしたことがあります。高齢の女性が、「息子が事故で大怪我をしたので 健康保険証がいる」と泣きながら言われていました。窓口の方は「今まで未払いの健康保険料を支払っていただければ、保険証はお渡しできるのですが」と困ったように言われ、この問答が幾度か繰り返されていました。

勿論、窓口の方の一存で「分かりました。今回は特別に健康保険証をお渡ししましょう」という訳にはいかないのは理解できます。それでは、誰にどう訴えればいいの? 結局は「上の人」で、「上の人」は「更に上の人」へ。 こうして最後に行き着く先は「国 ( 政府 )」。健康保険料を払いたくても払えない状況の人達をどうすればいいの?ってことになるのではないでしょうか。

 

大林三佐子さんのことを 自らの境遇に重ねて、大勢の人達が声をあげ 行動を起こしていたのも頷けます。 仕事を失い、貯蓄も使い果たせば、私も含め誰もが あっという間に住む場所も失います。

大林さんが亡くなったバス停のベンチのすぐ傍に、{TOKYO 2020}とプリントされた青と白の 『東京2020オリンピック公式フラッグ』が揺れていたのを、やりきれない思いで眺めました。

 

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