まとわり付いていた物が、サラサラと音を立てて削ぎ落とされて行った・・・はずだった

実家の両親に会うのはお正月以来。 あら? なんだか母が華やいで見える。コートの下には早々と春らしい色合いの洋服。お洒落だ。 気のせいか笑顔も話し言葉もいつもより明るい。「何か良いことあった?」と尋ねると、「生きている喜びを噛みしめているのよ」と答える。

 

父が手短に説明を始める。母は昨年の健康診断で『精密検査の必要あり』が 3つもあったそうだ。(こんなことは初めてらしい)。 母の父親  (『あなたのメロディ』に応募した、私の祖父) は50歳を待たずに亡くなっている。母が学校を卒業して就職したばかりの時だったそうだ。( 私は祖父の顔を写真でしか知らない)。
母が50歳の誕生日を迎えた時に、口にしたことがあった。「自分が父親の年齢を超える日が来るとはね・・・。50歳まで生きられるなんて不思議」。それから更に時は流れ、胃に関しては、母はここ数年間は胃カメラによる定期的な精密検査が必要となっていた。 そして、今回は胃の他に二つ、別の科を早急に受診するようにとの通知。

通知にあった通り、母は 3 科受診し精密検査を受けたとのこと。検査結果が全て出るまでには数週間かかるらしかったが、問診票にこうあったという。『どんな結果であっても 自分に知らせてほしいか』『一緒に結果を聞いて欲しい人はいるか。それは誰か』 『余命いくらかということも聞きたいか』など。 読んでいく内に母は「胃からの転移? いよいよ私も・・」との思いが脳裏をよぎったという。

結果が出るまでの数週間、母は自分に もしものことがあったら 一人暮らしになってしまう夫のために、日常の細々したこと ( 料理の基本・銀行口座に関すること・いろんなパスワード・お付き合いのメモ…) や仕事関連のことなどを記し始め、最後には、家族や友人に宛てた手紙などもそっと用意したらしい。

 

精密検査の結果も待たずに、母はなぜここまで用意周到に準備をしたのだろう…? 考えてみると、思い当たる節があった。 私が子どもの頃に聞いた話だが、母の父親 (私の祖父) は、検査のつもりで病院に行き、そのまま入院・手術となり、生きて自宅に帰ることはなかったとのこと。病院に行く 1 か月前には登山までしていたというのに…。そして、手術後の 筆舌に尽くし難い程の苦しみを目の当たりにした、当時23歳の母の中には 「入院」 = 「苦しみ」=「生きて帰れない」という図式ができあがってしまったのだろうか?

 

「お義父さんの頃と現代では、医学も雲泥の差で進歩しているのだから、だいじょうぶだよ」という夫 (私の父) の言葉も、母には届かなかったのだろうか。
命あるもの誰もが いずれは辿る道とは言え、突然自分の身に「死」が迫ってくる気配に たじろいだ母の心中を思う。「ひとりで抱え込まないで、私達にも言ってくれれば良かったのに…。そしたら、いろいろ調べて、お母さんがもっと安心できる材料も用意できたのに」と私が言うと、「検査結果が出るまで、みんなでくよくよしたって仕方がないでしょ? 全員の心が すり減ったら もったいないわ」と答える母の笑顔は いつもの見慣れた笑顔だった。

 

母は付け加えた。「いろんなケースを想定していく内に、命より大事なものは何もないと思い至った。そう思ったらね、不思議なことに、自分にまとわり付いているものが、サラサラと音を立てて 削ぎ落とされていくような気がしたのよ」。 「あれが欲しい、これがしたいなんていう欲望も何もかも無くなって、残ったものは、感謝の気持ちだけだったわ」。清々しくさえあった という。

 

数週間後に全部の検査結果が出揃った。胃も含めて どこも暫くは様子見でいきましょうとのこと。 結果を聞いて安堵すると同時に、母には再びふつふつとエネルギーが湧き上がってきたらしい。 さっそく「お祝いね!」と父を誘って、「回らないお寿司やさん」に行ったとのこと。 「後日、有名な割烹にも行ったよ」と父が、バックコーラスのように合の手を入れる。「いつか行きたい…と思ってても、行けないままになるかも知れない、と気付いたもの」と 母は歌うがごとく話す。

結果が出てからというもの、母は 食事以外にも その他諸々、 張り切って過ごしたらしい。「以前から、コンタクトレンズも化粧品も 切れかけていたし、スマホも機種変更したかったし、美容院でヘヤースタイルも変えたかったし、春先に着たい洋服も見つけてはいたんだけど・・・、入院してそのままになるのだったら何もかも全部必要なくなるのだから、検査結果が出るまで じっと我慢してたのよ」と笑う。「お母さんに いろいろ付き合って、忙しかったよ」と父も笑いながら、再び 合の手を入れる。 そう言いつつも、父も 心底ほっとしたのだろう。

なるほど、暫く会わないでいる間に そういうことが起こっていましたか…。 母は 生きる喜びを噛みしめ過ぎているような気もするけれど、ひとまず、良かった、良かった。

 

「あっ、そうそう。お父さんに宛てたメモの中に、私の 銀行口座 (へそくり用) の暗証番号も書いたわ。 このメモとキャッシュカードだけは、『すぐには見つからないけど探し物をしていると出てくる場所』に置いといたから、急いで回収しておかないと!」と母が言う。

そんな母を眺めていると「サラサラと 削ぎ落としたはずの煩悩」が、まるで映画の逆回しのシーンのように、また母の全身にペタペタと戻って まとわりついて行くようであった。

 

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