祖母の免許返納

報道によると、【池袋暴走事故で、検察側は車を運転していた飯塚被告 (90歳) 禁錮 7年を求刑し、弁護側は無罪を求めて結審した。判決は 9 月 2 日】とのこと。

論告に先立ち、遺族の松永さんが意見陳述をされた。松永さんはこの日の陳述に向け、昨年末から仕事を終えて帰宅した後、深夜までパソコンに向かわれたという。「意見陳述の原稿は 1 行書いたら涙が止まらなくなり、パソコンを閉じることを繰り返す、苦しい時間でした」と声を詰まらせながら語られたとのこと。

 心が張り裂けそうな思いで書かれた全文(A 4 判 11ページ)を読んだ。奥様の真菜さんとの出会いから始まり、結婚、莉子ちゃんの誕生と名前の由来、穏やかで幸せな日々・・・そして事故の知らせ、被告への憤り、ご自分の心情へと続き、松永さんの胸中察するに余りある。私はあまりの辛さに何度も中断しながら読み終えた。

 

昨年旅立った私の祖母のことを思い出す。大正生まれの祖母は、人様が「そろそろ免許返納を・・・」と考え始める年齢になって、家族の誰にも言わずにこっそりと免許を取得した。「車の免許を取ろうと思う」と言えば、「えっ!その歳で? 危ないわよ。今までだって行きたい所があれば どこへでも私達が乗せて行ってるでしょう?これからもそうするから」と反対されるのは分かっていたから黙っていたのだと想像できるが、それでも、頑張って取得できた嬉しさのあまり、皆に見せたくなったのだろう。「ねえ、これ見て」と免許証を差し出された時の家族の驚き・・・。

 

祖母は 同じ世代の女性達の中にあってはまだ珍しく、男性と肩を並べて仕事をしてきた。当時は「女性だから」と差別されることも多く、悔しい思いもたくさんしたと耳にしたこともある。定年まで勤め上げた後、「これからは、今までできなかったこと ( 趣味・ボランティアなど) をする」と言い、私達家族も「うんうん、これからは自分の楽しみを優先してね」と応援した。 

元々 祖母の行動力には目を見張るものがあったけれど、新しく始めた分野にもそれらは発揮された。そして、祖母は思ったのだろう。「車があれば もっと広範囲に動けるのに」・・・。当時は実家の両親をはじめ、身内はまだ学生だったり 仕事をしており、平日の祖母の望み通りの時間帯に 車に乗せて出かけることはできなかった。

 

かくして、祖母は 反対されないように 黙って自動車教習所に通い始め、免許を取得し、自分専用の新車を購入した。「おばあちゃん、運転に慣れるまでは、私たちが交替で助手席に乗って、危ない場面とかを その都度 教えるからね」と言うと、祖母は「お願いね」と喜んだ。実際に助手席に乗ってみると、安全運転過ぎて車の流れに乗れない不安もあったが、少しずつ慣れることを期待した。私達は次第に、祖母の積極性と頑張りに対して 応援する思いになっていった。

祖母には友人が多く、 学生時代からの長い付き合いの人達や、趣味仲間にも恵まれていた。免許取得後は 行事がある毎に車を運転し、皆さんから「助かるわ」と喜ばれたり、一緒に 遠方の美術館巡りをしたりして 生き生きと楽しそうだった。

  

数年経った頃、突然 警察から実家に電話があった。「お宅の おばあ様が人身事故を起こされたのを、ご家族はご存じでしょうか?」。 電話を受けた私の母は 驚き慌てふためきつつ 電話口の警察官から詳しい話を聞いた。そして すぐさま、怪我をされた方のお宅へ 私の父と共にお詫びに伺った。

 人身事故の内容は次のようなものだった。自転車に乗った高齢の男性が、信号のない道路を横断されようとして、祖母の運転する車とその男性の自転車が接触したとのこと。男性は自転車もろとも倒れ、足を痛められて入院 ( 数日間 )。祖母は毎日のようにお見舞いに伺ったらしいが、祖母の年齢のこともあり、家族にも知らせておいた方が良いだろう・・・とのことで、警察から電話が かかったらしい。後日、現場に行ってみると、中央分離帯には樹木が茂っていて見通しが悪い場所ではあったけれど、それは言い訳にはならない。車のハンドルを握った人間の責任の大きさを改めて感じる。

 

いつも明るくておしゃべりな祖母が、その事故に関しては家族に何も話さなかったことが、更にショックだったと 私の 母は言う。「もしかしたら、取り返しのつかないことになっていたかもしれない恐怖が 心に湧きあがった」と母は続ける。 

そういえば、普通乗用車に乗っていた祖母がある日、軽自動車に替えたことがあった。免許取得して数年後のことだった。今までの祖母なら、新たに購入する車の性能や車種について 家族に相談するはずなのに、この時も黙って購入していた。

駐車場の新しい車を見て驚き「今までの車はどうしたの?」と尋ねると「小型車の方が小回りがきくから、大きい車は引き取ってもらったのよ」と答えたので、その時は 言葉のままを受け入れたけれど、もしかしたら、自損事故で車を大きく破損していたのだろうか? そう思い始めると、日々の祖母の言動に「あら?」と思うことが増えていたようにも感じられた、と母は振り返る。一緒に暮らしていると ささやかな変化の積み重ねに気付き難いのだろうか?

 

考えれば考えるほど、母は更に心配になり、「これからは かつて そうであったように また私達が乗せるから、もう自分で車を運転するのはやめてくれないかしら?」と言った。そう言われるのは予測していただろう(だからこそ 家族に事故のことなどを話さなかった)祖母は渋った。

今まで自分の行きたい所へ自由に行けていたのに、それができなくなるのが寂しい祖母の気持ちも 充分 理解できる。私達とて ハンドルを握る者は誰しも 事故の危険とは隣り合わせ。それでも、年齢からくる身体能力の衰えを考えると、祖母の方が事故率の可能性は高い。人様に大怪我をさせたり、命を奪うようなことになれば・・・と想像すると、母は どんなに祖母が渋っても 免許返納は譲れなかったと言う。 

 

父も一緒に祖母を説得すること数日。 祖母はひとまず警察署に相談に行くことには納得したとのこと。「夕暮れ、一緒に行ってくれない? 娘婿にあたる お父さんよりは 孫の夕暮れの方が良いかも」と頼まれ、私も同行する。前もって相談の電話をしておいたので、すぐに別室に通される。担当してくださる警察官は 50 代くらいの方。噛んで含めるように丁寧に、高齢者の事故例やその後のこと、免許返納した際の優遇措置や、この地域ならではの取り組みなども話してくださる。 

警察官の方は、話が一段落つく毎に「分かって貰えましたかね? ご家族も心配されていますから、免許返納ということを考えてもらえますか?」と尋ねられる。祖母は しばらく沈黙して「でも・・・」と言いかけて口ごもる。 母と私が続ける。「おばあちゃん、この前のことだって、車が接触した所が自転車じゃなくて、相手の方の頭だったりしたら、取り返しがつかないことになったかもしれないのよ。それに 今後、もし事故の相手が 曾孫の 小焼けくらいの年齢の人だったら、これから先の、可能性がたくさんある長い人生を摘み取ることになるのよ」。次第に自分の言葉が、祖母にとっては きつく辛いものになるのは自覚しつつも、なんとか 返納を納得して欲しかった。

 

そんな問答を繰り返している内に「これだけ言っても・・・」と母が涙を拭い始めた。人前で泣かない母が 涙を拭っている。それを目にした私も泣けてくる。警察官の方が「娘さんや、お孫さんがこんなに心配されているのに、分かってもらえんかなぁ。ウチのお袋が・・と思うと、私まで泣きそうになる」とおっしゃる。がっしりした体格の強面 ( ごめんなさい ) のベテラン警察官の目にも涙。

 

ぽつりと祖母が言った。「免許、返します」.

 

免許を取得してから 7 年後のことだった。祖母の生きた時代は戦争もあり、自分の夫とは 40 代の若さで死別し、辛い思いも抱えながら娘 ( 私の母 ) を育てあげ、仕事も頑張り、ようやく自分の時間を楽しめていたのに・・・と思うと可哀相に思えて 切なくもなる。それでも、その後の祖母の様子 ( 認知症の進み具合 ) を見ると、「あの時 免許を返納していて良かった」と安堵したりもする。

 

歳を重ねて行くことは寂しくもある。 私達もいずれ行く道。

 

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